AncoraとAnchorina

学名の命名規約はそれそのものが難解ではあるが、それを具体的に適用するやり方はもっと難解で、素人には何がどうなっているのか理解に苦しむものも多い。まあ分類学者同士でも見解がなかなか一致しないこともあるようなので、そこはもう仕方ないのであろう。いつか本職の人に質問できるときのために覚え書きとしたい。なお本稿については国際動物命名規約に依る。

Ancora Labbé, 1899

無節グレガリナの属でAncora Labbé, 1899というのがあるが、そのシノニムとしてIRMNGにはAnchorina Mingazzini, 1891というのが挙げられている。年号が早い方がシノニムになっているので、命名法上なんらかの事情があるのだろうと思うわけだ。

まずAncora Labbé, 1899の出典には

Gen. Ancora Labbé*)

1891 Anchorina (= Ancorina, non Ancorina O. Schmidt 1862!), Mingazzini in: Atti Acc. Lincei Rend., ser. 4 v.7 p. 413.

*) Nom. nov. — Le nom générique Ancorina (= Anchorina) a été précédemment employé par O. Schmidt pour une éponge (1862. Die Spongien des Adriatischen Meeres, p. 51).

とあり、Anchorina Mingazzini, 1891は海綿の属Ancorina O. Schmidt, 1862のホモニムであるとして、Ancoraで置換している。ただこのときAncorina (= Anchorina)となっていて、綴りのhの有無によらず同一視している。

Anchorina Mingazzini, 1891

つづいてAnchorina Mingazzini, 1891の原記載を確認すると

Gen. Anchorina n.

Individuo adulto con corpo a forma di àncora.

Anchorina sagittata Leuck.

[...] Leuckart (5) nel fare la revisione del catalogo del Diesing delle gregarine, rimproverando a questo autore di avere dimenticato qualche specie, accenna specialmente all'omissione di questa alla quale dà il nome di Gregarina sagittata.

とあり、LeuckartGregarina sagittataと名付けた種をもとにAnchorina属を設立している(そこに書かれていた出典は種記載の条件を満たしていないように思えるが、今回の話とは関係ないことにする)。

"forma di àncora"という記述から、錨の形をしていることにちなんだ命名であることは明らか。ラテン語で錨はancoraなので、それに接尾辞をつけたとすればAncorina命名されるのが自然である。しかし原綴りがAnchorinaであるのにそれをAncorinaだと解釈してホモニムと見なすことは正しいのだろうか?

修正(emendation)

1文字違いはホモニムではない(条56.2)と命名規約に明記されているので、Anchorina Mingazzini, 1891が直接Ancorina O. Schmidt, 1862のホモニムであるという解釈は現在成立しない(当時、1文字違いはホモニムと見なすような習慣があった可能性はあるかも)。おそらく、LabbéがAncorina (= Anchorina)と修正した上で、それがホモニムであるというロジックを採ることになる。

学名が設立された著作物で用いられた綴りは、それこそが正しく(条32.2)、それを維持しなければいけない(条32.3)という原則になっている。ただし例外がいくつかあり、そのなかに元の著作物そのものの中に「不慮の過誤」であるという明白な証拠がある場合(条32.5.1)は訂正しなければいけないというのがある。このとき不正な換字や不正なラテン語化は不慮の過誤と見なさない。今回の場合、Anchorinaという綴りが「不慮の過誤」によるものであれば訂正しなければいけないし、たとえば不正なラテン語化なのであれば訂正する必要がない。

学名の修正については、規約によって強制されるものを除き、「明らかに意図的」に行われている変更と定義されている(条33.2)。LabbéははっきりAncorina (= Anchorina)と明記しているので、「明らかに意図的」な修正と言って良い(条33.2.1)。そしてその修正が、条32.5にしたがって訂正した場合は「正当な修正名」(条33.2.2)、それ以外ならば「不当な修正名」(条33.2.3、慣用による例外あり)である。

仮にAnchorinaという綴りが不正なラテン語化なのであれば、Labbéの修正は不当である。修正したAncorina Mingazzini, 1891という学名が慣用されているわけではないため、慣用による例外も適用されない。したがってAncorina O. Schmidt, 1862との同名関係は存在せず、Anchorina Mingazzini, 1891が有効名となる。

もしAnchorinaという綴りが「不慮の過誤」によると認めるならば、それはLabbéが修正したとおりAncorina Mingazzini, 1891と扱うべきであり、したがって後続同名としてAncora Labbé, 1899に置換しなければいけない。

不慮の過誤?

そうすると、Anchorinaという綴りが「不慮の過誤」なのかどうかが問題となる。この綴りを見ると英語のanchorの綴りを想起するが、Oxford English Dictionaryによるとこれは古典ラテン語における異形anchoraに由来しているとある。とするとMingazziniはラテン語anchoraに接尾辞をつけAnchorina命名した可能性も十分にある。そもそもイタリア語話者であるMingazziniは錨をàncoraと実際に綴っているわけで、それなのに不慮の過誤でhを、それも2ヶ所で同じように挿入するということが起きるのだろうか。不正確なラテン語化をした場合でも「不慮の過誤」とは見なさないのに、異形とはいえ正当なラテン語綴りを用いているものを「不慮の過誤」と見なすことに「明白な証拠」があると言えるのだろうか?

というわけで、個人的には、この問題はLabbéによる不当な修正に起因しており、無節グレガリナの属名としてはAnchorina Mingazzini, 1891が有効名だと思っている。さてこの素人考え、どんなもんだろうか。