Félix Villeneuveのこと

ある程度の研究の対象となった生物には学名が付けられるのだが、学名を付けるには結構面倒くさい様々な決まり事(命名規約)があって、普通は分類学者の(どちらかというと脇道の)仕事である。ただ全ての学名が、本職の分類学者によって付けられているわけでもない。分類学ではない分野で活躍している生物学者が、成り行きで命名しているようなケースもある。場合によっては、正体不明とまで言わぬものの、いまやほとんど名を残していない者が名付けているようなことも、あるにはある。

ブラストグレガリ

最近たまたま知った奇妙な寄生虫で、ブラストグレガリナというのがある。ブラストグレガリナというのは出芽するグレガリナという意味で、その奇妙さは機会があれば書くとして、ホコサキゴカイの消化管に寄生する、たったの4種しか知られていない単細胞生物である。

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このブラストグレガリナという名は1936年にChattonとVilleneuveによって名付けられている。Chattonというのは生物学の歴史の中ではちょっとした名を残した人で、フランスの学者Édouard Chattonのことである。海洋生物学や原生動物学の分野で活躍したのだが、そういったマニアックな業績を抜きにしても、学術文献上に真核生物原核生物という言葉を持ち出した張本人として知られている。他にも似たような概念を唱えた学者はいるし、実はChatton自身はそれほど積極的にこうした言葉を用いていたわけではないようだが、ともかく現在使われている2つの言葉は彼に帰せられている。

一方のVilleneuveが、ここで扱う謎の人物である。雑誌によっては論文著者の名前は姓とイニシャルしか書かれていないことも多いのだが、ブラストグレガリナの論文には幸いFélix Villeneuveと名前が記されている。しかしどんな人物なのかさっぱりわからない。データベースで検索してもChattonと連名の同年の論文があと1つ見付かるだけである。博士号取得者が掃いて捨てられている現代ならともかく、フランス科学アカデミーで発表経験のある大戦前の学者がその後行方知れずというのは、戦中に命を落としたのであろうか。

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書誌データベース

図書館が蔵書に関わる情報として構築する書誌データベースを、各国の国立図書館などが連携させたVIAFというものがある。著書がある学者なら、何らかの形で名前が登録されていることが多い。検索してみると、ちゃんと出てくる

しかしなんだかちょっと様子がおかしい。"Biologie humaine"(ヒトの生物学)といういかにも教科書っぽいタイトルの本と並んで、"Ami fidèle"(忠実なる友)とか"Chevalier millénaire"(千年の騎士)とか"Princesse de béton"(コンクリートの王女)とか学者の本にしては似つかわしくないものが並んでいる。同姓同名の人物が混じっているような印象である。

これらのタイトルと名前で検索しても今ひとつパッとしないのだが、"Horloger"(時計職人)というタイトルでamazonほかで扱われているpaperbackがヒットした。

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というわけで現代カナダ人作家ということが判明。さすがにヒトの生物学は書いてなさそうなのでこれとは別人だろうが、海洋動物の寄生虫の研究論文と、ヒトの生物学では、ちょっと分野に開きがあるようにも思える。第三の人物ということもあるかもしれない。

ニーム・アカデミー

ここで詰まってしまったが、wikidataを覗いてみるとニーム・アカデミーに所属したFélix Villeneuveが存在している。ニーム・アカデミーは1682年に南仏ニームに設立された地域学術団体。その会員に選出された人物ならば、問題の人物と同一人物という可能性はあるかもしれない。

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ニーム・アカデミーの刊行物はオンラインで参照可能になっていて、しばらくあれこれ検索するうちに1969年選出で、1994年に後任が選出されていることが判明する。こういうアカデミーは会員の追悼記事を書くものなので、1994年前後の記事を見ていった結果、この人がたしかにChattonと共著論文を著したFélix Villeneuveだと判明し、めでたくその略歴を知ることができた。

Félix Villeneuve

Félix Villeneuveは1913年モンペリエ郊外の湿地の村エーグ=モルトに生まれ、モンペリエ大学を卒業し1935年にセットにある同大学の臨海実験所の助手となった。ちょうどこのころChattonが所長になっており、この記事の端緒となった論文が書かれた。しかしChattonは1937年にパリへ異動してしまうので、わずかな期間の共同作業者だったことになる。1939年対ナチスドイツ宣戦布告により戦時体制となりフランス陸軍第28歩兵師団に動員される。1940年6月の独仏休戦協定により動員解除となり、 ガール県アレスの高校教師、ついで1942年にニームの高校教師となり1973年に引退するまで務めた。教師として、数多くの生徒をコンクール受賞に導いたほか、多数の教科書を執筆した。1969年にニーム・アカデミー会員に選出され、彼の故郷に関する研究発表などを行っているほか、刊行物の編集に多大な貢献をしたという。1969年に教育功労章(オフェシエ)および国家功労勲章(シュバリエ)を受章している。1993年12月12日死去。遺言により火葬された。

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